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長崎地方裁判所壱岐支部 昭和55年(わ)19号 判決 1982年8月28日

主文

被告人は無罪。

理由

第一  理由の要旨

一  本件公訴事実は、

被告人は、昭和五五年三月一二日、長崎県壱岐郡芦辺町諸吉本村触二一七八番地七所在の自宅において、自己が居住し長崎県漁業協同組合連合会(代表者会長理事住江正三)が所有する木造瓦葺二階建一棟の床柱に手斧で切りつけて長さ約二一センチメートル、深さ約一・五センチメートルの傷をつけた外、柱、床面など合計二〇か所を同様の方法で切損し、もつて前記連合会所有の建造物を損壊したものである。

というのである。

二  被告人が右日時に長崎県壱岐郡芦辺町諸吉本村触字棚江二一七八番地七所在家屋番号二一七八番七木造瓦葺二階建居宅(床面積一階一三一・三一平方メートル、二階七〇・八〇平方メートル)一棟(以下、「本件建物」という。)の床柱に手斧で切りつけて長さ約二一センチメートル、深さ約一・五センチメートルの傷をつけた外、柱、床面など合計二〇か所に同様の方法で傷をつけた事実は、後記第二の八判示のとおり認められるが、以下に詳細判示するとおり、本件建物が刑法二六〇条前段にいう「他人ノ」建造物であるとの事実につき合理的疑いを容れない程度に証明があつたとはいえないので、結局本件公訴事実について犯罪の証明がないことに帰するものである。

第二  本件の経緯

被告人の当公判廷における供述、第一回公判調書中の被告人の供述部分、被告人の司法警察員(二通)及び検察官に対する各供述調書、証人中村太郎、同岩永正人、同松永栄子の当公判廷における各供述、山口哲治の検察官及び司法警察員に対する各供述調書、司法警察員作成の実況見分調書、中村太郎作成の報告書、不動産登記簿謄本五通(うち三通は写し)、長崎県漁業協同組合連合会(以下、「県漁連」という。)及び被告人外一名作成の「生あわび・さざえ」売買契約書(写し。以下、いずれも写し。)、県漁連作成の伝票、中村太郎作成の復命書、被告人外二名作成の債務確認ならびに支払誓約書、被告人外一名作成の根抵当権設定契約書、県漁連及び被告人外二名作成の譲渡担保設定契約証書二通、被告人作成の昭和五〇年五月一〇日付引渡書、被告人作成の同日付管理引受書、中村太郎作成の約束手形預り証、約束手形半券四通、被告人作成の同日付委任状二通、長崎地方裁判所昭和五二年七月二九日判決(昭和五〇年(ワ)第三二七号)正本、長崎地方裁判所壱岐支部昭和五四年一一月二九日競落許可決定(昭和五二年(ケ)第三号)謄本、長崎地方裁判所壱岐支部昭和五五年二月一三日不動産引渡命令(同号)正本、長崎地方裁判所壱岐支部執行官作成の不動産引渡執行調書謄本を総合すれば、次の一ないし九の事実が認められる。

一  被告人は、昭和二九年に本籍地の中学校を卒業後、魚介類運搬船の船員として働いていたが、昭和四五年頃に運搬船を購入して自ら魚介類の販売業を営むようになつた。そして、被告人は、昭和四七年頃から、県漁連(会長理事住江正三)を通じてあわび、さざえを購入するようになつた。

二  県漁連においては、その一業務として、長崎県内の漁業協同組合(以下、「漁協」という。)から委託を受けて各漁協の生産、出荷するあわびを販売しているが、その販売に当たつては、一年を数回の期間に分けて入札会を催し、各漁協ごとに、各期間中に生産予定の数量(単位キログラム。以下、「予定生産量」という。)のあわびについて最高価格(キログラム当りの買値)の申込みをした取引業者との間で売買契約を締結することとしていた。ただし、各期間の前に入札、売買契約がなされる関係上、当該期間における現実の生産量が予定生産量より増減することがあるが、その場合、落札、契約した取引業者は、三〇パーセント増の範囲内では生産されたあわび全部を買取らねばならないという取引慣行があつた。代金はあわびを受取つた日から五日以内に支払う(遅延損害金年一〇・八パーセント)約定であり、信認金という、入札に参加するための一種の保証金を預託すること、売買代金債務の担保のため連帯保証人をつけること及び落札保証金として一か月分の取引概算額の三〇パーセントに当たる現金を県漁連に納付することが要求されたが、その外には特に担保を提供することは要求されていなかつた。

被告人もこのような取引業者の一人であつた者であり、昭和五〇年三月一七日の入札会において、同年四月一日から六月三〇日までの三か月間に生産されるあわび(クロ(雄)、アカ(雌)の双方を含む。)について、生月漁協(組合長は県漁連会長理事住江正三)の予定生産量約一万一七〇〇キログラムを約三九五一万六〇〇〇円で、志々伎漁協の予定生産量約八〇〇〇キログラムを約二九六一万五〇〇〇円で、それぞれ落札し(合計約一万九七〇〇キログラム、約六九一三万一〇〇〇円)、県漁連との間で売買契約を締結した(以下、「本件売買契約」という。)。

三  こうして被告人は、同年四月一一日の志々伎漁協出荷分から本件売買契約に基づくあわびを逐次受取つて販売したが、不景気による需要減と他の生産地における供給過多のためあわびの市場価格が暴落し(値の高いクロにつき、被告人の落札価格が一キログラム四二〇〇円程度であるのに対し、市場価格は三六〇〇円程度に下がつた。)、例年であればあわびの価格が上がる四月末になつても上がらなかつた。したがつて、被告人は、あわびを販売すればするだけ損害を被るため、思うようにあわびを販売することができず、あわび籠に入れて海水中につるして保管しているあわびの数量は増加する一方であつた。

そこで、被告人は、このまま本件売買契約どおり県漁連からあわびを受取つていれば損害がぼう大になり、県漁連に売買代金を支払うこともできなくなると考え、同年五月二日頃、県漁連県北事業所長岩永正人に対し、取引は止める、以後の出荷分は受取れない旨電話で連絡した。岩永は、被告人が落札したものである以上、受取る義務がある、放棄されては困る旨返事をした。

県漁連本部では、右岩永からの報告により県漁連が被告人に対して有する売買代金債権を保全する措置を講じる必要があると判断し、岩永及び債権の管理、保全担当の考査役である中村太郎をそのために同年五月八日から一〇日の間壱岐に出張させることとした。

四  右中村、岩永の両名は、同年五月一〇日、債務確認ならびに支払誓約書、根抵当権設定契約書、譲渡担保設定契約証書、委任状等の各用紙を用意して被告人宅を訪れ、債権保全措置について被告人及びその妻松永栄子と交渉した。その結果、被告人は、県漁連に対する債務の総額が一億〇四一〇万円であることを確認し、これを同年五月七八〇万円、六月一一四〇万円、七月三八〇〇万円、八月四六九〇万円に分割して支払うことを誓約する旨の債務確認ならびに支払誓約書(以下、「本件確認誓約書」という。)に署名押印するとともに(なお、妻栄子及び松永武光も連帯保証人として押印した。)、その支払のために県漁連を受取人とする約束手形四通(満期、金額がそれぞれ、同年五月三〇日、三八〇万円のもの、六月三〇日、一一四〇万円のもの、七月三一日、三八〇〇万円のもの、八月二九日、四五六〇万円のもの)を振出した。

更に、右中村、岩永の両名は、右債権担保のため、被告人が昭和四九年一二月に自己の家族の住居として使用すべく新築し所有していた未登記(当時)の本件建物、その敷地である被告人所有の壱岐郡芦辺町諸吉本村触字棚江二一七八番七雑種地二五二平方メートル、妻栄子所有の同町諸吉本村触字一〓替一八三一番一宅地三九・一四平方メートル及び被告人所有の同町諸吉本村触字白橋田所在の宅地、建物(以下、「本件不動産」と総称する。)について、水産製品売買取引、手形割引取引、手形債権、小切手債権を被担保債権とする極度額一五〇〇万円の根抵当権を設定するよう求めた。被告人は自己の印鑑を妻栄子に預け、栄子は、右中村と高岡司法書士事務所に同行し、右趣旨の根抵当権設定契約書の被告人名下及び自己名下にそれぞれ押印した。同司法書士は、昭和五〇年五月一三日、本件建物につき、「昭和五〇年五月二日新築」を登記原因とする建物表示登記及び所有者を被告人とする所有権保存登記の手続をしたうえ、根抵当権設定契約の日付を同月一二日として本件不動産につき根抵当権設定登記の手続をし、その旨の登記がなされた(長崎地方法務局壱岐支局同月一三日受付第一六一九号)。

また、同月一〇日当日、右中村は、被告人に対し被告人所有の船舶大福丸(総トン数一九・九四トン)をも債権担保のため県漁連に譲渡するよう求め、被告人は、その旨の譲渡担保設定契約証書の被告人名下に押印し、かつ右船舶の売却処分等一切を岩永に委任する旨の委任状に署名押印した。

五  その後も県漁連からのあわびの出荷が続いたので、被告人及び妻栄子は、再びあわびの出荷中止を要請するため、同月二六日、県漁連本部を訪ね、これ以上あわびは受取れない旨を話した。県漁連の松永参事は、同月二七日、二八日に生月漁協の総会があるので右出荷中止要請について話をしてみる旨答えたが、その際、同人の求めにより、被告人は、被告人が既に受取つた分と以後受取るべき分を合わせた合計約二万六〇〇〇キログラムのあわびを本件確認誓約書記載の一億〇四一〇万円の債務の担保として県漁連に譲渡する旨の譲渡担保設定契約証書、そのあわびを県漁連に引渡した旨の引渡書、そのあわびの管理保管を被告人が引受ける旨の管理引受書、そのあわびの売却処分等一切を前記岩永に委任する旨の委任状に署名押印した。

しかし、右生月漁協の総会において右出荷中止の要請は受け入れられず、出荷は続けられた。被告人は、同月末生月漁協のあわびの受取りを担当していた従業員を引揚げたが、その後も昭和五〇年六月三〇日まであわびの出荷は続けられ、被告人は、県漁連の指示のもとに、そのあわびを海水中に保管しながら他に販売した。

六  こうして販売されたあわびの代金は、逐次被告人の県漁連に対する売買代金債務に充当されていつたが、県漁連は、同年一〇月四日、本件確認誓約書記載の一億〇四一〇万円の債権額を基礎にして入金済みの四五三五万三五六二円等を控除してもなお五七八七万五七二七円の売買代金債権を有するとして、被告人に対しその支払を求める訴を長崎地方裁判所に提起した。被告人は、本件確認誓約書による意思表示は形式的なものにすぎず法的拘束力を有しないと主張した外、抗弁として、事情変更(あわびの大暴落)を理由として同年五月二日被告人は本件売買契約を将来に向かつて解除したこと、保管中のあわびの斃死による損害は譲渡担保権者たる県漁連が負担すべきこと、被告人が支出したあわびの管理費用との相殺などを主張したが、長崎地方裁判所は、昭和五二年七月二九日、被告人が昭和五〇年三月三一日から六月三〇日までの間に現実に受取つたあわびの数量、金額を認定したうえ、右のような被告人の主張をすべて排斥し、五六九九万八二二五円及び遅延損害金の支払を命じる判決を言渡した。

被告人は、右判決に不服であつたが、経済的事情で控訴しなかつたため、右判決はそのまま確定した。

七  続いて、県漁連は、長崎地方裁判所壱岐支部に前記根抵当権に基づく任意競売の申立をなし(昭和五二年(ケ)第三号)、昭和五二年一一月二八日任意競売開始決定がなされた。県漁連は、本件不動産中の被告人所有の本件建物及び字棚江二一七八番七雑種地、妻栄子所有の字一〓替一八三一番一宅地(以下、「本件建物等」という。)について、五六〇万二〇〇〇円で自ら最高価競買人となり、昭和五四年一一月二九日競落許可決定がなされた。そして右競落許可決定の確定、県漁連による代金納付を経て昭和五五年一月一四日、本件建物等について県漁連への所有権移転登記がなされた。

こうして、同年二月一三日、県漁連の申立により、長崎地方裁判所壱岐支部執行官(以下、「執行官」という。)に対し本件建物等に対する被告人及び妻栄子の各占有を解いて競落人たる県漁連に引渡すべきことを命ずる不動産引渡命令が発せられた。

八  同年三月一二日、執行官は、県漁連の申立により、右不動産引渡命令の執行のため本件建物に臨み、玄関横の八畳間において被告人に対し本件建物の引渡の履行を勧告した。

被告人は、前記判決が誤つているから本件建物は自己所有のままであると思い続けており、当日は長男の高校受験の日であつたこともあつて憤激し、手斧を持出してきていきなり同八畳間入口の二本の柱に切りつけてそれぞれ傷をつけたため、執行官は、身の危険を感じ、県漁連とも相談のうえ、当日は引渡の履行の勧告にとどめ、執行を中止した。被告人は、執行官が帰つた後も興奮さめやらず、同八畳間の床柱に手斧で切りつけて長さ約二一センチメートル、深さ約一・五センチメートルの傷をつけた外、柱、床面など合計一八か所に同様の方法で傷をつけた。

九  なお、被告人所有の船舶の引渡に関する県漁連と被告人間の民事訴訟において、昭和五三年一一月二七日、被告人の訴訟代理人(本件弁護人)は、県漁連の訴訟代理人に、「昭和五〇年五月一〇日に県漁連の中村、岩永両名が被告人宅に来た際に被告人のなした本件不動産に対する根抵当権設定の意思表示等は、県漁連の右両名の詐欺によるものであるから、これを取消す。」旨の準備書面を手交した。

第三  弁護人の主張について

一  弁護人は、本件建物(を含む本件不動産)に対する根抵当権設定契約は、県漁連から被告人に対する申込みの事実も、被告人のこれに対する承諾の事実も存しないから、無効である、仮にそうでないとしても、右根抵当権設定契約における被告人の意思表示は、県漁連が法律に無知な被告人を欺罔してなさしめたものであつて、詐欺による意思表示として取消されたから、遡つて無効となつたので、本件建物の所有権は競売によつて県漁連に移転しておらず、したがつて、本件建物は依然として被告人の所有である旨主張する。

しかして、本件建物に対する任意競売手続は、民事執行法(昭和五四年三月三〇日法律四号。昭和五五年一〇月一日施行)附則二条によつて廃止される前の競売法(明治三一年六月二一日法律一五号)に基づいて行われたものであるところ、競売法に基づく(根)抵当権の実行としての競売においては、競落人は競落代金完納時に競落不動産の所有権を取得するが、当該(根)抵当権が不存在、無効であつた場合、民事執行法に基づく担保権の実行としての競売におけると異なり(民事執行法一八四条参照)、たとえ、競落許可決定が確定し、競落代金が完納され、所有権移転登記がなされていても、競落人は競落不動産の所有権を取得しえないと解されている。したがつて、本件において、競落許可決定の確定、競落代金の完納、所有権移転登記、不動産引渡命令の発布まで経ていても、弁護人の主張どおり本件建物に対する任意競売の基礎たる根抵当権の設定契約が当初から無効であつたり、あるいは右契約が詐欺により取消された結果遡つて無効となつたものであれば、本件建物の所有権は競落人たる県漁連に移転しておらず、依然として被告人の所有のままということになるので、以下、この点について判断する。

二  本件建物を含む本件不動産に対する根抵当権設定契約について、県漁連の中村、岩永の両名がその根抵当権の設定を求め、被告人が自己の印鑑を妻栄子に預け、同人が高岡司法書士事務所において根抵当権設定契約書の被告人名下(及び自己名下)に押印したことは前記第二、四中段のとおりであり、被告人及び証人松永栄子の当公判廷における各供述によれば、被告人は右中村、岩永の両名の求めに対し、ともかくこれを承諾したうえ根抵当権設定の手続を妻栄子に任せたものであることが認められるから、根抵当権設定契約は当初から無効であるとの主張は採用しえない。

三  次に、詐欺による取消の主張について、被告人は、昭和五〇年五月一〇日に県漁連の中村、岩永の両名が被告人宅に来た際に被告人及び妻栄子が本件確認誓約書、本件不動産に対する根抵当権設定契約書等に署名押印又は押印したのは、被告人及び妻栄子が「そんな(本件確認誓約書記載のような)金額は支払えない。」と言つたのに対し、中村、岩永の両名から「形式的ですたい。」と言つて(署名)押印を求められたため、(署名)押印は形式だけのことで、その約定どおりの金額の支払を要求されたり、不履行の場合に根抵当権を実行されたりすることはないものと信じたからである、特に県漁連の人は被告人らから見れば上の人(偉い人)であるから言われるとおりにした旨当公判廷において供述し、証人松永栄子も当公判廷において同旨の供述をするのに対し、証人中村太郎は、被告人らの右(署名)押印に際し、被告人らに「形式的ですたい。」と言つたことはなく、根抵当権の趣旨を被告人らに説明し、債務不履行の場合は根抵当権の実行までありうるということまで話をして本件不動産に根抵当権を設定するよう求め、県漁連の実情を説明したら被告人らはすんなり署名押印してくれた旨当公判廷において供述し、証人岩永正人も当公判廷においてこれに沿つた供述をするので、これらの各供述について検討する。

1  被告人、証人松永栄子、同中村太郎、同岩永正人の当公判廷における各供述、県漁連作成の伝票(写し)、中村太郎作成の復命書(写し)を総合すれば、次の(一)ないし(三)の事実が認められる。

(一) 昭和五〇年五月一〇日現在、被告人が現に県漁連から受取つていたあわびの数量及びその売買代金額は、志々伎漁協分の約八六〇〇キログラム、約三四〇〇万円、生月漁協分の約五七〇〇キログラム、約二三〇〇万円の合計約一万四三〇〇キログラム、約五七〇〇万円であり、外に繰越分の約五三〇万円の債務があり、これを加えても当時現実に生じていた被告人の債務の総額は約六二三〇万円であつた(ただし、後記有川漁協分を除く。)。ところが、本件確認誓約書記載の債務総額一億〇四一〇万円というのは、同年四月一日から六月三〇日までに被告人が県漁連から買取る予定のあわびの数量及びその売買代金額を、志々伎漁協分約一万一〇六〇キログラム(予定生産量の約八〇〇〇キログラムを約三〇六〇キログラム上回る。)、約四一七六万円、生月漁協分約一万一七〇〇キログラム、約四八五七万円(合計約二万二七六〇キログラム、約九〇三三万円)として計算、これに本件売買契約とは別に契約した有川漁協分の約三五〇〇キログラム、約八五〇万円及び右繰越分の約五三〇万円を加えたものであつた。

被告人及び妻栄子には、本件不動産及び大福丸以外にめぼしい財産はなく、右のような債務は、被告人としては、県漁連から買取つたあわびを販売してその代金で弁済する以外に当てはなかつた。

(二) 当時、あわびの市場価格が暴落し、例年であればあわびの価格が上がる四月末になつても上がらず、したがつて、被告人は思うようにあわびを販売することができなかつた(前記第二、三前段のとおり。)ため、被告人は既に受取つていたあわびの大部分を在庫として海水中に保管していたものであるが、あわびの市場価格が近々回復するという見込みはなく、しかも保管中のあわびも水温の上昇とともに斃死率が増大していくという状況にあつて、被告人も県漁連も、七、八月に台風が来て、あわびの価格が上がるのに期待する外はないという認識を持つていた。

他方、志々伎漁協、生月漁協は、あわびの市場価格が暴落していても、被告人には落札価格で売却する(県漁連を通じて)ことができるので、被告人に大量に売却するほど得をするという状況にあつた。

(三) 県漁連としては、同年五月二日頃被告人が岩永に対してした、以後の出荷分は受取れない旨の電話連絡について岩永から報告を受けて債権保全措置を講じる必要があると判断して、中村、岩永の両名を壱岐に出張させた(前記第二、三中段、後段)わけであるが、右両名は、被告人の債務支払能力は楽観を許さない危険な状態にあると認識し、被告人がまだ受取つていない分(将来受取る分)のあわびについては、資金力のある他の取引業者にこれを買取らせることも検討していた。

2  右1認定の事実及び前記第二認定の事実から判断するに、

(1) 昭和五〇年五月一〇日現在現実に生じていた被告人の債務総額は約六二三〇万円であつた(ただし、有川漁協分を除く。)のに対し、中村、岩永の両名が被告人に署名押印を求めた本件確認誓約書記載の債務総額一億〇四一〇万円の大半を占めるのは、志々伎、生月各漁協分の合計約九〇三三万円(数量約二万二七六〇キログラム)であり、これは、本件売買契約における予定生産量約一万九七〇〇キログラム及びその代金額約六九一三万一〇〇〇円を、約三〇六〇キログラム、約二一二〇万円上回るものであるところ、被告人が同月二日頃に岩永に対してした、以後の出荷分は受取れない旨の電話連絡(本件売買契約の将来に向かつての解除)が法的に認められるかどうかは別として(前記長崎地方裁判所昭和五二年七月二九日判決は排斥した。)、このように昭和五〇年五月二日頃に以後の出荷分は受取れない旨電話連絡をした被告人が、それにもかかわらず、その直後の同月一〇日に、前示のとおりたとえ予定生産量の三〇パーセント増の範囲内では全部買取らねばならないという取引慣行があつたにせよ、右のように予定生産量(したがつてその代金額)を大幅に上回る数量のあわびを買取ることを前提とした債務総額を容易に承認するとは考え難いこと、

(2) 当時現実に生じていた約六二三〇万円の債務が既に支払えない状態にあつたうえ、暴落したあわびの価格が近々回復する見込みはなく、しかも被告人が既に受取つた分の大部分を在庫として保管していたそのあわびも水温の上昇とともに斃死率が増大していくという状況にあつて、被告人も県漁連も、七、八月に台風が来て、あわびの価格が上がるのに期待する外はないという状態にありながら、本件確認誓約書の内容は、前示のとおり被告人は五月から八月までのわずか四か月の間に一億〇四一〇万円全額を弁済するというものであり、その実現の可能性には疑問があること、

(3) 根抵当権を設定した本件不動産及び譲渡担保を設定した大福丸は被告人及び妻栄子の全財産ともいうべきものであり、特に本件建物は被告人が自己の家族の住居用に新築したばかりの建物であるから、証人中村太郎の当公判廷における供述の如く中村が債務不履行の場合は根抵当権の実行までありうるということまで話をしたとすれば、被告人らがそのことを承知したうえで(前記のとおり四か月の間に一億〇四一〇万円を弁済しなければ、債務不履行となる。)、同じく同証人の供述の如く被告人らが「すんなり」(署名)押印したとは考え難いこと、

(4) 本件売買契約では、被告人は信認金、連帯保証人及び落札保証金以外、特に担保の提供を要求されていなかつたところ、被告人の債務支払能力は楽観を許さない危険な状態にあると認識していた中村、岩永の両名としては、債権保全措置として何としても抵当権等により担保を確保しておく必要があつたこと

を併せ考えると、被告人があわびの取引に携つていた業者であつたことを考慮しても、本件確認誓約書、本件不動産に対する根抵当権設定契約書等作成の際の状況に関する証人中村太郎、同岩永正人の当公判廷における各供述は信用し難く、被告人及び証人松永栄子の各供述の方が信用できるものというべく、これによれば、本件確認誓約書、右根抵当権設定契約書等作成の際被告人及び妻栄子が「そんな(本件確認誓約書記載のような)金額は支払えない。」と言つたのに対し、中村、岩永両名が被告人らに「形式的ですたい。」と言つて(署名)押印を求めたものと認められ、右言辞により、被告人らをして(署名)押印は形式だけのことであり、その約定どおりの金額の支払を要求されたり、不履行をしても根抵当権を実行されたりすることはないかのような錯誤に陥れて本件不動産に対する根抵当権設定の意思表示をさせたという詐欺の成立する可能性を否定し去ることはできない。そして、被告人の訴訟代理人が県漁連の訴訟代理人に対し右根抵当権設定の意思表示等を取消す旨の意思表示をしたことは、前記第二、九のとおりである(なお、県漁連は、民法九六条三項にいう善意の第三者に該当しない。)。

四  してみれば、前記一に判示したところに従い、競落許可決定の確定、競落代金の完納等を経ていても、本件建物の所有権は競落人たる県漁連に移転しておらず、したがつて、依然として被告人の所有のままである可能性を否定し去ることができず、結局、本件建物が本件事件当時被告人の所有ではなく「他人ノ」所有する建造物であつたことについて合理的疑いを容れない程度に証明があつたとはいえない。

第四  結語

よつて、本件の任意競売手続、不動引渡命令及びこれに基づく執行官の執行は、いずれも適法なものであり、被告人がこれに対し法的な不服申立措置をとることなく執行官の執行に際し判示行為によりこれを妨害したことは法律上許されるものではなく、別罪を構成することあるは格別、本件公訴事実については犯罪の証明がないことに帰するという外はないから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。

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